Kinderzeit in Basel 1881-1886-バーゼルの少年時代 1881-1886

「バーゼルに対する私の関係は私の年齢と同じか、もっと古い。というのも、バーゼル伝道会で働いていたのは私の父ばかりではなく、すでに母の父もそうだったのだ。彼は学識ある宣教師の一人で、サンスクリットを読むだけでなく、話すこともできるというので若いインド学者達を驚かせたことがあり、また、マラヤラム語や他のインドの言葉の知識、文法、辞書編纂で貢献をした。このシュヴァーベンの祖父(もう一人の祖父はロシア系だった)は半世紀前には、バーゼルの伝道会のお祭りにやって来る人びとに、マルティン教会でいつも開会式のスピーチをする語り手として有名だった。 その娘である私の母は、バーゼル近郊のグンデルディンゲンで教育を受け、バーゼル・ドイツ語と英語やマラヤラム語をうまく話すことが出来た。彼女の一番下の弟はバーゼルの女性と結婚していた。その上、なかでも特に、バーゼル伝道会とその最高機関である「コミッティー」は、両親と祖父母の生活の中で支配的な、毎日口に出される権威だった。だから私は、ほぼ4歳の頃、自分の目で初めて見る以前から既に、バーゼルを知っており、一つのイメージを抱いていた。つまり、あの頃父は伝道館の教師としてバーゼルに転勤し、われわれ子供たちはこの転勤を喜んだが、それはただ転勤だから旅行することになる、というだけでなく、バーゼルについて素晴らしい魅惑的なイメージを抱いていたからだった。というのも、伝道会や伝道館のことだけでなく、ライン河やその上にかかる幾つもの橋、美しく古い町、大聖堂やレレンケーニヒのことが話されていたし、またこれらの珍しいものをもう図版で知っていたのだ。

 

1881年から1886年までわれわれはバーゼルで暮らし、シュパーレンリングの向かい側のミュラー通りに住んだ。この二つの道路の間には、当時はエルザス鉄道の線路が走っていた。通りかかる列車を眺めたり、町に行こうとする時に踏み切りで何度も立ち止まったり待ったりしたのが、バーゼルについての私の最も古い記憶である。あの数年の間に、父はバーゼルの市民権を獲り、保持し続けた。われわれのミュラー通りとその周辺は、恐らく町外れのかなりつましい地域だったのだが、それでもわれわれ子供たちにとっては、さまざまな発見や冒険がつきることのない楽園であり、原始林だった。われわれのアパートのもうすぐ近くから田園がはじまり、アルシュヴィールの方を向いている農家や、その近くの砂利採取場では田舎風の遊びをするチャンスが与えられた。そして大きな、子供だった私にとっては果てしなく広いシュッツェンマッテ(射撃場に使われた草原)は、当時は射撃クラブの集会場からノイバートの方まで家が建っていなかったので、私にとっては蝶々を捕まえるかっこうの場所であり、われわれがインデアンごっこを繰り広げる舞台だった。この時代の思い出の幾つかは『ヘルマン・ラウシャー』の少年時代の章に記してある。それから次第に私は、特に父との日曜日の散歩の折に、町の中心部、ブルーメンラインの渡し場や幾つも橋のあるライン河や、大聖堂、プファルツ(居城、)、クロイツガング、当時クロイツガングの上方にあった歴史博物館をもくわしく知るようになった。そして当時父に連れられて何度か訪れた美術館で得た印象の幾つかが、12年かそれ以上たって再びバーゼルに戻った時にまだ完全に生きていることを見出した。これらの印象の中には、階段室にあったベックリンのフレスコ画、ホルバインの家族の絵と死せるキリスト、フォイアーバハのアレティーノと子供の田園風景、子供の時に特に好きだったツュントの穀物畑の絵などがある。われわれのバーゼル時代の最後の2~3年には10月の見本市もまた、屋台やメリーゴーラウンド、バルフューサー広場での大道芸人のモリタートの歌、量り売りの甘い飲み物メスモッケ、われわれの町外れまで姿をあらわして音を響かせた手回しオルガン弾きたちなどと共に大いに忘れがたい。私が丁度9歳になった時、私はまたバーゼルを去らねばならなかった。父がまたシュヴァーベンの仕事に呼び戻されたのである。われわれ子供たちは新しい学校に慣れ、バーゼル・ドイツ語を忘れねばならなかった。バーゼルとの関係はもちろん続いたし、我が家にはしばしばバーゼルからのお客があった。でも私がこの町を再び訪れたのは、休暇での短い訪問は例外として、ようやく大人になってからだった。」

 

ヘッセ:「バーゼルの想い出」、『1900年以前の青・少年時代』より。第2巻614頁以後、版権、マイン河畔フランクフルトのズーアカンプ出版社