Karl Otto Johannes Hesse-カール・オットー・ヨハネス・ヘッセ

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ヘルマン・ヘッセの父、カール・オットー・ヨハネス・ヘッセはバルトの祖父カール・へルマン・ヘッセと最初の妻イェニー(旧姓ラス)との間に生まれた第五子だった。ヨハネス・ヘッセは、レヴァールの騎士及び司教座聖堂付属学校を終えた後、バーゼルで宣教師となる教育を受け、1869年にインドに赴いた。しかし熱帯の風土が身体に合わず、1873年には慢性の病気のためにドイツへ戻らねばならなかった。バーゼル伝道会はその同じ年の内に彼をヘルマン・グンデルトの助手としてカルプへ派遣した。出版協会では彼は伝道新聞の編集を引受けた。 1874年に彼は、同様にインドにいたことがあり、チャールズ・アイゼンバーグとの最初の結婚で未亡人となったグンデルトの娘マリーと結婚した。ヨハネス・ヘッセとの結婚で4人の子供が生まれ、ヘルマンはその2番目だった。グンデルトの死後、ヨハネス・ヘッセはカルプ出版協会の3代目の主宰者となった。

 

私たちの父は…周りで話され、妻や子供たちも話していた方言を死ぬまで身に付けることなく、私たちのシュヴァーベン語やスイス・ドイツ語が飛び交う中で、その純粋で洗練された美しい標準ドイツ語で話した。この標準ドイツ語は、土地の人々に対し我が家の親密さや快適さを損なうこともあったが、われわれはこれを大いに愛し、誇りにしていた。われわれはこれを、父のすらりとした、ひ弱できゃしゃな体つきや、高く秀でた額や、澄んでしばしば苦しげな、しかし、いつも率直で誠実で、行儀良さや騎士道的態度を要請し、相手の中にあるより良いものへと訴えかける父の眼差しと同様に愛していた。彼は…よそ者であり、よその土地からわれわれのところへ間違って飛んできた高貴で珍しい蝶ないしは鳥であり、その繊細さと苦悩によってと同様、その秘められた郷愁で際立ち孤立していた。

 

『物乞い』、1948年 より 版権 ズーアカンプ出版社、マイン河畔フランクフルト